哲学史上最も有名な師弟関係と言えば、古代ギリシアの「ソクラテス→プラトン→アリストテレス」に違いないでしょう。
それでは問題です、ソクラテスの師匠は?
変な師匠
『プロタゴラス』で、ソクラテスはプロタゴラスに対してこんなことを言っています。
あなたはたくさんの経験をお持ちだが、どうやらこの知恵(注:プロディコスの知恵)のことはご存じないようだ。わたしはこのプロディコスの弟子だから、よく知っているんですが。
プラトン著中澤務訳『プロタゴラス』341A
プロディコスは『プロタゴラス』に出てくるソフィストの一人で、言わばプロタゴラスと同業のはずなのですが、ソクラテスからするとプロディコスは師匠のようです。
そしてこの点については誰も何も言っていないことから、ソクラテスは普段からそのように公言していたのかもしれません。
一方で、プロディコスはソクラテスと同年代のようですから、古代ギリシアによくある師弟関係とはちょっと異なるようでもあります。
古代ギリシアの師弟関係は親子くらいの年齢差のある男性どうしで、性的関係を含むものとされてます。
年下の方が少年である間だけの関係であることが一般的だったようなので、この関係は少年愛と表現されます。
ということを考えると、ソクラテスとプロディコスの関係は当時の普通な師弟関係ではなく、ソクラテスが勝手にリスペクトして「師匠」扱いしているような特殊系にみえます。
たわむれに弟子を名乗る
ちなみにですが、既に読み込み済みの『メノン』でも、ソクラテスはプロディコスに言及しています。
君は、「終り」と呼ぶところのものをみとめるかね?
それは「限界」とか「端」とか言ってもよいようなものであって、すべてこれらの言葉は、ぼくに言わせれば、同じ意味なのだ。
プロディコスなら、おそらくここで異議をとなえるかもしれないがプラトン著藤澤令夫訳『メノン』75E
ここの「プロディコス」には注が付けられていて、「類似語の極端に厳格な区別で有名」と紹介されていて、なおかつ『プロタゴラス』を参照するよう書かれています。
『プロタゴラス』の該当箇所(337A-B, 358D-E)では、プロディコスは「公平と平等」、「尊敬と賛美」、「愉楽と快楽」あるいは「不安と恐怖」を区別するというものすごくめんどくさいことを熱く語ってます(^ー^;
こんなプロディコスですから、そりゃ「終り」と「限界」と「端」を全部区別して使うであろうことは容易に想像されます。
ところで、ソクラテスは「師匠」に言及しつつも、「ぼくに言わせれば、同じ」とも言っています。
こういうのを言えちゃう関係って面白い(^ー^;
ソクラテスはプロディコスを、「あいつはやり過ぎだ」とどこか冷ややかに見ているところもあるんでしょう。
『メノン』にはもう一箇所プロディコスについて言っているところがあります。
君はゴルギアスから、ぼくはプロディコスから、あまり充分に教育されなかったのだろう。
プラトン著藤澤令夫訳『メノン』105D
対話相手のメノンはゴルギアスを師と仰いでいるのですから、この言い方はソクラテスがプロディコスを師匠とみていると言っていいでしょう。
ここにも注が付けられていて、「ソクラテスは(おそらくは半ばたわむれに)自分をプロディコスの弟子と称するのが常であった」とあります。
「たわむれに」だなんて、さすが藤澤さん洒落てます(^ー^)
やっぱりソクラテスからすると、プロディコスを若干ネタ的な意味で師匠扱いしているようです。
プロディコスを師匠扱いするわけ
ところでいくらたわむれとはいえ無闇に「師匠」扱いするはずがありません。
プロディコスのやりすぎなくらいの言葉の使い分けは、ソクラテスと通じる部分もあります。
ソクラテスは物事を考える際に「普遍的定義」に立ち返ろうとしていましたが、類義語の厳密な使い分けは普遍的定義がないことには困難ですから、途中まではソクラテスとプロディコスは同じことをするのだと思われます。
ただし、それをする目的は全然違っています。
プロディコスはソフィストですから、相手を言い負かす弁論術を高い授業料をとって教えていたと予想されます(プロディコスは情報が少なく詳細はよく分かりません)。
プロタゴラスもそうですが、彼等ソフィストは基本商売人です。
よって、プロディコスにとって、言葉の厳密な使い分けの目的は弁論で相手を言い負かすことです。
ほとんどの人が雑に言葉を使っていることにつけ込んだ、差別化の戦略なのだと思います。
しかしそもそも金儲けをしようと思っていないソクラテスにとって、差別化とか相手を言い負かすなどといったことはほとんどどうでもいいことです。
共通点がありながらもこのような決定的な違いがあるから、ソクラテスにとってプロディコスは「たわむれ」の師匠だということになっているのだと思います。
たわむれの師匠とタッグを組む意味
そんな関係でありながら、『プロタゴラス』でソクラテスはプロディコスに救助を求めてタッグを組みます。
なんでそんなことをしたのかは、表面上たまたまそのとき話題の種になっていた詩の作者とプロディコスが同郷の人だったということになっていますが、本当にそれだけかというとそうでもない気がします。
というのも、なんちゃって師弟関係に基づいてプロディコスに協力を求めるような当てずっぽうのやり方で倒せるほどプロタゴラスはヤワではありません。
あくまで予想にすぎませんが、ソクラテスは一見無敵に見える「詭弁+相対主義」の弱点をかなり早い段階で見抜いていて、プロディコスの「商品」でそこを攻撃することが可能だと踏んだのです。
この物語にはもうひとりヒッピアスというソフィストが参加していたのですが、彼の「商品」である博覧強記ではプロタゴラスを倒すことは到底不可能でした。
ヒッピアスという、ストーリー上一見必要なさそうに見える人物も実はプロディコスを際立たせるという重要な役目を担っているのです。
こんな風にメインキャラ以外のキャラクターも周到に配置されているところが『プロタゴラス』の凄さであり、著者プラトンのありあまる文学センスのなせるワザだと思います。
では次回。
『プロタゴラス』のちょっと複雑な構造の意義について考えてみます。
プロローグ的なものが2つ配置されていて、物語が重層的な構造を持っているのですが、そんなめんどいことをやって何をしようとしていたのかを見てみます。