電子書籍でプラトンの『メノン』新訳(光文社)を発見したため、読んでみました!結論としては、旧訳藤澤版の方が好みだったものの読書体験としてはとてもよいものでした。
The Gem
プラトンの『メノン』は本当に良くできた本です(初期の作品なので、プラトンの、というよりはソクラテスの、と言った方が正確かもしれません)。
何が優れているって、何をさしおいてもその薄さです。ページ数を云々するよりも上の写真を見ていただければ明らかです。
そしてただ薄いだけではなくて、文章が恐ろしく平易。
エッセイみたいなノリで最後まで読めます。
そしてもっと凄いのが、書かれている中身。
こんだけ薄くて平易なのに、書かれている中身は無限の宇宙へと読者を誘うとてつもない刺激的な着想に満ちあふれています。
人類史上最高のIQを持っていたとも言われる、あのJ.S.ミルをして’the gem’と言わしめただけのことはあります。
ところで、この’the gem’という表現。
gemは宝石とか、抽象的に宝石みたいな美しい物を指すものかと思いますが・・・
このミルの評については旧訳でも新訳でも紹介されていて、藤澤令夫は「珠玉の短編」と訳しています。
一方で、新訳版の渡邊邦夫はそのまま「宝石」と訳しています。
二人の訳者のスタイルの違いが、この簡単な単語の翻訳に見て取れると僕は思いました。
洒落た言い回しを使って会話のリズム、インパクトを演出する藤澤さんに対して、渡辺さんの訳は直訳調というか、とても生真面目な翻訳になっていると感じました。
もっともこの違いだけであればただの好みの問題ですが、旧訳と新訳では読者にとってもっと大きな違いを生み出す構造上の違いがあります。
懇切丁寧なイントロダクション
渡邊氏による新訳版にはかなり詳しい説明が本文に先立って挿入されています。
これがあまりに良くできていて、読者にとって大いに助けとなること請け合いです。
一方、藤澤氏による旧訳では表記上の注意書と登場人物のリストだけがあって、あとはいきなり本文です。
では藤澤訳の方が不親切かというと、これがそうとも言い切れません。
『メノン』の本文は、テーマとなる「徳」に関する問いかけから始まっています。
例えば同じプラトンでも『国家』はソクラテスが見てきた祭りの感想について語るところから始まるのですが、『メノン』はいきなり本題に入ります。
このダイナミックさ、勢いの良い展開が、渡邊訳の場合丁寧過ぎるイントロダクションによって損なわれているように感じました。
太宰治の『走れメロス』のイントロに丁寧な説明文とかあったら、いくらそれが内容的に優れていたとしても邪魔に感じるのではないでしょうか。
メロスは激怒した。
という、史上最強とも思われる最初の一文の前には余計な装飾は一切いらなく感じるのと同様に、『メノン』の前には必要最低限の但し書き以上のものはいらないと僕は思います。
電子書籍ゆえの欠陥
渡邊訳は電子書籍版があります。
これは非常にありがたいことです。
メノンは薄い本ですが、電子書籍の方が場所を取りませんしデバイスさえあれば読みたいときにすぐ読めます。
ところが、この電子書籍というか、アプリのKindleの出来が良くありません。
特に、本書のようにたくさん注釈の付いた本との相性は全く良くないのです。
注釈のかかった文をタップすると、ハイライトやら辞書機能やらが起動して無駄な検索とかしてしまいます。
このように、注釈に飛びたいのに「9」の検索という超どうでもいいことをしています(それでいてハイライトは「98」にかかっているという(^ー^;)。
紙の本だとこんな面倒な事態に陥らずに簡単に注を参照できるので、まだまだKindleアプリも不完全だなーとがっかりしました。
ハイライトも辞書・Wikipedia検索も非常に便利なのですが、このように注の多い本となると機能どうしが競合してしまいかえって不便になるのが現状のようです。
ついでに言うと、上の画像の様に両端の領域に注の対象となる文がある場合はページ送り機能とも競合してしまいます(^ー^;
おかげで『メノン』の特徴である”スイスイ読めるお手軽さ”がかなり犠牲になっていると感じました。
結果、僕は電子書籍で『メノン』を読んだときには手間を省くため本文を読み終わった後にまとめて注を参照するという読み方をしました。
なのでせっかく豊富に設けられている注がほとんど読解の助けにはならないという悲しい事態に(^ー^;
おすすめな使い分け
そんなわけで、僕は初めて『メノン』を読むのであれば藤澤氏の翻訳した岩波版をオススメします。
すぐ本文が始まり、アプリの未熟さに邪魔されることなく、珠玉の名訳で世紀の傑作を楽しめます。
安い古本も手に入りやすいと思います。
では、渡邊氏による新訳はこの藤澤版を前に無意味なものかというと、僕はそんなこともないと思っています。
渡邊訳の『メノン』は既に『メノン』を読んだ後で思索を深めるためには格好です。
イントロの丁寧な解説だけでなく、本文終了後に新書一冊分くらいの内容の濃い解説もあります。
その中では藤澤版『メノン』にはない、訳者による解釈がかなり詳しくほぼ全文を対象にして述べられているばかりか、近年の研究動向も載せられています。
藤澤さんも本文の後で解説を載せていますが、渡邊さんほど網羅的ではありませんし分量もずっと少ないです。
本文の方も、藤澤さんの訳より硬いものの、恐らくは原文に忠実にしたためかと思います。
なので、読み込むには良い資料となります。
そんなわけで、渡邊さんの新訳の方も読み応えのある価値ある一冊だと思います。