偽Perfume

『HHhH』、それは弱小国を背負った勇者として戦場に立つこと。ヘンテコタイトルの独自予想付き

余計な言葉を使うこと無く、この読書体験の感動を一言二言でお伝えできればどんなにいいだろう。

今すぐにこの思いを伝えたいのです。

でもそんな芸当は僕にはありませんので、長文で失礼します。

ドイツ第三帝国の怪物

そうそう簡単には批評できない「HHhH」について、まずは物語の舞台をざっと俯瞰してみます。
サブタイトルの「プラハ、1942年」が物語の中核となる舞台です。

1942年といえばナチスドイツがまだまだ勢力を誇っていた時期。
世界一の美しさを誇るプラハ擁するチェコスロヴァキアは早々に併合されており占領下にありました。

世界史を学ぶ上では、それでおしまい、あとはアメリカが参戦して解放されましたとさ、となるわけですが…

実際はそんな単純に物事は進みませんでした。

占領されたチェコスロヴァキアを統治することになったラインハルト=ハイドリヒ(この小説の主人公の一人といっていい人物)はドイツ的効率性の申し子として、残虐な手法をふんだんに取り入れながらチェコスロヴァキアの抵抗勢力を骨抜きにしていました。

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Bundesarchiv Bild 146-1969-054-16, Reinhard Heydrich” by Hoffmann, Heinrich
この画像およびデータは ドイツ連邦公文書館 (Deutsches Bundesarchiv) による協力プロジェクトの一環としてウィキメディア・コモンズに提供されたものです。ドイツ連邦公文書館はそれぞれ確実な原本のみを使用していること(否定およびまたは肯定)を保証しています。原本のデジタル資料は デジタル画像アーカイブ にて提供されています。. Licensed under CC-BY-SA-3.0-de via ウィキメディア・コモンズ.

このハイドリヒ、ユダヤ人の大虐殺をも主導したという悪の権化のような怪物です。

でも・・・この怪物がこの世に生まれた瞬間を、この小説は描写しているのです!!

生まれたばかりの赤ん坊を見つめて、「大きくなったら、きっと音楽家になるわ!」なんて母親が言うのです。
『HHhH』がどれだけすごい小説なのか、その片鱗を感じていただけるはずです。

チェコスロヴァキアはこの怪物を前になすすべなく、ドイツ帝国のしもべとしてただの軍事工場と化してしまいました。

祖国消滅の危機に立ち上がった戦士達

やられっぱなしのこのままでは、たとえ英国とソヴィエト連邦の連合軍がドイツに勝利したとしても、その後の自治は認められそうにはありません。

ヨーロッパとは常に邪悪な意志がぶつかり合い、弱き物は強き者に従わせられる。
そういう場所でした。

チェコスロヴァキアが自分たちの国を取り戻すためには、国際社会にその意志だけだなく力を持つことを証明する必要がありました。

ロンドンで活動していた亡命政府には、連合軍が救出に現れるのを指をくわえて待っている暇なんてありませんでした。

なんとしてでも自分たちの手でナチスに手痛い一発を食らわしておかねばならなかったのです。

そこで亡命政府が秘策として編み出したのが「類人猿作戦」と名付けられた、怪物ハイドリヒ暗殺計画。

実行者にはチェコあるいはスロヴァキア出身で、戦乱の中フランス外人部隊を経て英国に亡命してきた猛者たちが選ばれました。

その中でも特に重要な任務を任されていたのが、ヨゼフ=ガブチークとヤン=クビシュ。
彼らもこの小説の主人公です。

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Operace Anthropoid – Jozef Gabčík” by Unknown – www.vets.estranky.cz. Licensed under Public domain via Wikimedia Commons.

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Operace Anthropoid – Jan Kubiš“. Licensed under Public domain via Wikimedia Commons.

ロンドンで怪物暗殺のため特別な訓練を受けた二人は、 亡命政府大統領より直々に出撃命令を受け英国空軍機で上空からパラシュートでチェコに侵入します。

そして厳戒態勢のプラハを駆け巡り、怪物ハイドリヒと対峙することになります。

記述の斬新さ

このように、物語自体の魅力がまずあります。
でも、この小説の読書体験の凄まじさはその物語性だけによるのではありません。

まどろっこしく邪魔にも思える、作り手の慎重極まりない制作工程が物語の間に挟まれるのです。
作家による随筆のごとき語りが特に前半においてはメインで展開されます。

事実が前提として存在している歴史小説において、創作が暗黙で認められていることに時に噛みついてみたり、自分の書いた小説のさりげない会話は実は実際の出来事と全てリンクしており創作ではないことを主張してみたり。

こうした独特の構成によって、歴史を語ることの重みや解釈の奥行き、果ては歴史小説はどうあるべきなのか、といった幅を持たせる効果が出ています。

作者は小説家というよりも、厳格な歴史学者であろうとしているように思われました。
曖昧な妄想や文学的修辞のために事実をねじ曲げることなく、冷徹に事実を見つめようとしているのではないかと。

が、小説の行き先は思わぬところへと向けられます。

作者が、一人称を使ったまま、物語に入り込むのです。
そのとき彼は冷徹な観察者ではなく…

いよいよチェコスロヴァキアの勇者が魔王ハイドリヒに挑む段階に至っては、目撃者として自分もそこに立ち会うことになるのです。

歴史を追い続け小説にするという過程が、一人の作家をどう変貌させるか。
時に魔王に魅せられ、時にパリ出身であることも忘れ去るほどにプラハに同化し、時空を超えて歴史の中へと入り込んでいく記録がHHhHなのだと思います。

タイトルの意味は

まだまだ電子書籍としては高価なので、手を出すのはためらわれるかもしれません(僕も、図書館で借りて読みました)。

最後に、この謎めいたタイトルについて。
これはドイツ語Himmler Hirn heißt Heydrich(ヒムラーの頭脳、その名はハイドリヒ)の略で、ハイドリヒの上司ヒムラーに対する皮肉として当時言われていた言葉のようです。

このheißtという動詞、何か見覚えのある気がしたのですが、フランツフェルディナンドのDarts of pleasureに出てきたich heiße …の活用形なのでしょう。
~の名前は〜だ、という表現だったかと思います。

こうやって分析してしまうと、このタイトルはまるでハイドリヒの小説のような印象になってしまって、本来の主役であるところのガブチークとクビシュが薄れてしまいそうです。

でもこの作家、とんでもない実験的なチャレンジを仕掛けるほどの戦略家です。
HHhHがドイツ語の略称だということで納得させペテンにかけるつもりなのかもしれません。

なので、「HHhH」の意味は、文字をそのまま受け取る方がいいと僕は提案してみます。

巨大な大文字のHの間に、一つだけこっそり潜んでいる小文字のh。

列強の狭間で消え入りそうになりながら、それでも己の存在を示してみせたチェコスロヴァキアの姿が、そこには映されているように思えてなりません。

訳者が後書きに、このタイトルの読みは英語風に「エイチエイチエイチエイチ」でもフランス語風に「アッシュアッシュアッシュアッシュ」でもドイツ語風に「ハーハーハーハー」でも構わないと言っていましたが、僕からすると、小文字のhだけはチェコスロヴァキア風に読ませて欲しいところです(ドイツ語っぽい感じになりそうです)。

「英国・フランス・チェコスロヴァキア・ソ連」なんてタイトルにすると、表記が長い「チェコスロヴァキア」の存在感まで大きくなったように見えますが、『HHhH』の「h」の息苦しそうな存在感の方が当時のチェコスロヴァキアっぽいと思うのです。

あるいはもしかしたら、この小文字のhは歴史の中に紛れ込んだ、現在を生きているはずの作者を意味しているのかも。

作者が作中で、この小説のタイトルは(ハイドリヒ暗殺計画のコードネームだった)「類人猿作戦」以外あり得ないと言っているのに実際は「HHhH」になっているのですから、ヒムラーがどうしたとかそういう意味のタイトルではないと思います。

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