プラトン『プロタゴラス』の複雑構造を紐解く企画第二弾、今回は前回「第1の袋」と表現した構造を見てみます。
「読者へ」
前回の図を再掲します。
上の図で、ソクラテスVSプロタゴラスという『プロタゴラス』のコアを包む構造上の袋が2つあり、第1の袋が「ヒポクラテスのため」という枠組みであり、第2の袋が「ソクラテスが思い出して語る」という枠組みです。
第2の袋は哲学のテキストとして、あるいは文学作品の技巧としての意味合いがあることを前回明らかにしました。
それでは、今回は第1の袋の部分はどういった意味合いがあるのか、ということを考えてみます。
僕が思ったのは、この部分「ヒポクラテスのために」はこの本の但し書き・注意書きみたいなものだということです。
ヒポクラテスといえば、ヒポクラテスの誓いを思い浮かべるかも知れませんが、ここに出てくるのは全く別の無名の人です。
そしてこのヒポクラテスは、序盤に出てきてソクラテスと話す以外は一切登場せず、また言及もされません。
そこでこのヒポクラテスはプラトンが「この本を読む人のために」というメッセージを伝えるために登場させた人物だと僕には思われます。
プラトンからの警告「俺はお前を欺ける」
『プロタゴラス』の第1の袋が読者へのメッセージだとして、その中身は何かというとある種の警告です。
ソクラテスはこの第1の袋において、無名の青年ヒポクラテスを一瞬だけ騙します。
ソフィスト的手法とでも言うのでしょうか?
詭弁を使って、ヒポクラテスがプロタゴラスのところに行こうとするのは「ソフィストになるため」だということをヒポクラテスが否定出来ないように仕向けるのです(312A)。
なぜなら、医者のところに学びに行くのならそれは医者になるためだろうし、彫刻家のところに学びに行くのなら、それは彫刻家になるためだろうから、という実例を通して。
プロタゴラスは世間でソフィストと呼ばれているのだから、そこに行こうとしているのならソフィストになろうとしているってことだよね?というのがソクラテスが用いた論法です。
しかしソフィストになりたい、などということは論理上必然と導かれてしまったものの、ヒポクラテスの本心としては思ってもいないことでした。
思ってもいないことをしているのだと思わせる、これはまさしく詭弁のなせるワザです。
ソクラテスはこのようにヒポクラテスを騙した直後、あっさりとこの詭弁をひっくり返して見せます。
本当は、ソフィストになりたくてプロタゴラスのところに行こうとしているのではなくて、教養を学ぼうとしているんだよね、とフォローを入れるのです(312B)。
『メノン』を読んである程度のトレーニングができていた僕は、正直ここのソクラテスの詭弁にはひっかかりませんでした(というか、医者になる、彫刻家になる、ってどういうことかそんなに明らかじゃないじゃん、職業として名前が知られているだけじゃんっていちゃもん付けたくなりました)。
が、『メノン』を読んでいなかったら、たぶん引っかかっていたと思います。
直後でソクラテスがひっくり返してくれていなかったら、「なるほど、師匠に就くということは、その師匠になろうとするということなのだ」と信じてしまっていたと思います。
ソクラテスはヒポクラテスに、きみは騙されるところだったんだよ、とは言いません。
むしろソクラテスはヒポクラテスがプロタゴラスに騙されないように味方して付いていくという展開がその後で待っています。
よって、ヒポクラテスがハメられかけたことを本人は分からないままです。
著者プラトンはここで、その気になればソクラテスはソフィスト的詭弁を使うことができるということを示すとともに、自分は読者を騙すことも出来るんだよ、ということまでも暗に示していると思います。
教養はすごく大事、でもだからこそ危険
プロタゴラスのところに行くのはソフィストになりたいわけではなく、教養を学びたかったからなのだ、というソクラテスのフォローに対して、ヒポクラテスは「そう、それです!」と飛びつきます。
メノンくんレベルに主体性のないヒポクラテスくんです(^ー^;
しかしソクラテスは、それならばなおさら注意が必要だと説教します。
なぜ注意が必要か。
まず何より、教養を学ぶということは心を鍛えること(312B)、心のスポーツとでも言うべきものだという前提があります。
次に、心が成長できるかどうか、ということはその人が人生を納得いくものに出来るかどうかを決定する重大な要因(313A)だという認識があります。
つまり、教養というのは、その人間の一生を左右するとてつもなく大事なものだということです。
だとすると、間違った教養を身につけてしまうことは間違った医療を受ける以上に人生を棒に振ることになりかねないのです。
どのような教養を身につけるべきか、というのは、その後の人生を決める一大事なのです。
気楽にベストセラーの本を読みあさっていれば良い、などというのんきなものではないのです。
ここで、先ほどプラトンがソクラテスを使って読者を騙しにかかってきたことを考えれば、この事態はより鮮明になります。
著者は読者を騙すことが可能なのです。それが意図的であるにしろ、意図せぬものであるにしろ。
読者は著者が本当に正しいことを言っているのか、気をつけなければなりません(313E)。
もしも判断が出来ないのであれば、家族や仲間に相談して何日も考え続けろ、とソクラテスは言います(313A-B)。
しかも、ソクラテスは自分はこのような大事な問題で判断を下すには若すぎるとまで言います。
もっと年上の人たちも交えて検討しようというのです(314B)。
教養って、それくらい慎重に慎重を期す必要のあることだというのです。
アツい・・・そして、重いです。
『プロタゴラス』を読むに当たって
この警告は教養全般に対するものであるとはいえ、本作『プロタゴラス』を読む際の警告でもあります。
よく考えて、本当に正しいことを言っているか、騙そうとしていないか、納得して読み進めるように。
特に本作は対戦の一方の当事者が語り手だという偏った設定も持っているのですからなおさらです。
ここまでプラトンが大見得を切っている以上はとことんまで付き合ってみようと僕は思いました。
そんな風に、読者をビビらせておきながらもしっかりアツくさせちゃうのがこの第1の袋のもつ役割ではないかと思います。