ほぼメノンブログ書きと化している最近の僕ですが、たぶんこれでしばらくはメノンとお別れ(^ー^;
最初の一冊に通史というありがちなこと
僕は大学で理系の学部だったのですが、一年次の教養科目で哲学を選択しました。
ガイダンスのときに、先生に最初に読むべき一冊は何か、と聞いたところ、なんでもいいから西洋哲学史全体が書いてある本を読んで、そこから自分の興味で読み進めていくとよいと言われました。
で、当時ネットで似たような質問をしたときも、同じような答が返ってきました。
確かに、哲学を学ぶ、というのであればこのやり方はある程度有効でしょう。
しかし、そんなのは大学の単位を取るのに有用であっても、全然面白くありません。
哲学させられる本
僕はやりたいことが「哲学を学ぶこと」ではなく、「哲学すること」だったので、つまらない通史なんてやっている場合ではありませんでした。
「哲学すること」が目的の場合の最初の一冊って、きっと勝手にその人個人で決まるのだと思いますが、今にして思えば僕はあのときすぐにプラトンの『メノン』を手に取るべきだったと思います。
この本は、「哲学すること」を助けてくれるというより、さらに強烈に「哲学させられる」本です。
内容としての深さ、刺激の強さについてはすでに何度か記事を書いていますが、重要なのはこれら諸々のトピックを「自分の頭で考えさせる」しかけにあります。
僕は『メノン』をずっと前に読んで、そのまんまになっていたのですが、なんか分かったような分からないような、そんな不思議な気分になったのを覚えています。
そしていつかそこから一歩踏み出したい、と思ってました。
一歩踏み出すことが出来たのは最近なんですけど(^ー^;
なんでそんな気分にさせられていたのか、今改めて『メノン』を読むとはっきり分かります。
一言で言うと、ソクラテスが煽っていたからです。
こんな顔で。
きみ、ダイダロスの彫像も知らないのかい?
ダイダロスの彫像
ダイダロスは伝説の大工だそうで、彼の作った彫像はあまりに良くできていて作品が自分で動き出すので縛り付けていないと走り出して逃げ去ってしまったそうです。
そのため、ダイダロスの彫像を持っていたとしても、縛り付けていないと大して価値がないし、縛り付けているのならあまりにも美しい作品ゆえにたいへんな値打ちがあるというのです。
それで。
正しい考えも、ダイダロスの彫像と同じだと言うのです。
正しい考えもまた、或る程度の時間留まっていてくれる場合には、立派であり、あらゆる優れたよいことを成し遂げてもくれる。しかしそうした考えは、長期間留まってはくれないで人間の魂から逃げ出してしまうので、したがって人がこれらの考えを[事柄のそもそもの原因にさかのぼって、その原因から考えて]原因の推論によって縛り付けてしまうまでは、たいした価値はないのだ。
渡邊邦夫訳『メノン』より、[]は訳者による挿入
これが煽りでなくてなんだというのか。
この、「縛られた考え=知識」と、「縛ってない考え=思いなし」の区別というのを『メノン』から読み取れる面白トピックとしている読者もいるようですが、この箇所は中身よりもこれを持ち出した著者プラトンの意図をこそ読み取るべきだと思います。
ダイダロスの彫像の話は『メノン』の終盤に出て来ます。
全体を42章とした場合の39章という位置です。
こんなところに出てくるからには、もちろん重要なことには違いありませんが、僕はプラトンがソクラテスを通して煽っているのを感じます。
お前ら、この本を読んで何か感じることがあったとしても、それをちゃんと推論して論理で縛り付けてないとそんなものはゴミだ。
それは今言ったとおりだ。
で、俺はここまでこんなにも懇切丁寧にお前らに色々と話してやったわけだが、まさかこの本を読んで感じたものを縛り付けもせずに野放しにするなんてそんなもったいないことはするまいな。
いくらメノンレベルのお馬鹿でもさすがにそこまではしないよな?
一回本を読んだくらいで縛り付け可能なんてまさかそんなお気楽でおめでたいバカはいないよな?あ?
これのせいで、僕は『メノン』は放置したくないと思わされていたのでしょう。
ま、でも実際に「縛り付け」に挑んでみたら楽しくて楽しくてやってよかったと思えたので、今はプラトン兼ソクラテスにはさらなるドヤ顔をされてる気分です。