プラトンの『メノン』では、何の難しさもない超簡単な問題みたいな扱いの「ミツバチの定義」が、地味に超難問に見える件について。
ミツバチって?
毎度お馴染みの岩波版藤澤訳ばかりというのもあれなので、たまには光文社版の渡邊さんの訳で見てみます。
(余談ですが、Kindle版はホントに使えなくて、誰の訳であろうと簡単に対応箇所を参照できるステパヌスのページ(アルファベットと数字で示されるあれ)が記載されていません)
ソクラテス そこのところではミツバチがお互いに何も異ならずぜんぶおなじであるようなもの、それは何だときみは答えるのだろうか?
きっと、きみはわたしに、なにか答えることができるだろう?メノン ええ、もちろん。
この後ソクラテスはその答を聞くことなく、質問を「徳とはまさに何であるか」に移してしまいます。
で、その後ミツバチについては一切触れられません。
つまりはわざわざ言うほどのことでもないということなのでしょう。
でも、どうでしょうか?
ミツバチって、何?って、結構難しくないですか?(^ー^;
現代での定義に不可欠な系統樹
現代であれば、辞書という武器があるので参照してみます。
まずは広辞苑。
ミツバチ科の蜂の総称。特にその一種で、別名セイヨウミツバチをいう。
本当はこの後にも説明は続くのですが端折ります。
次に百科事典。
膜翅目ミツバチ科ミツバチ属の昆虫の総称。オオミツバチ、コミツバチ、西洋種およびニホンミツバチが代表的。
あとWikipediaも。
ミツバチ(蜜蜂)とはハチ目(膜翅目)・ミツバチ科(Apidae)・ミツバチ属(Apis アピス)に属する昆虫の一群で、花の蜜を加工して巣に蓄え蜂蜜とすることで知られている。現生種は世界に9種が知られ、とくにセイヨウミツバチは全世界で養蜂に用いられており24の亜種が知られている。
おいおいおいおい!!
これ、系統樹が分かってないと無理じゃんすか!!!
系統樹が作られたのは19世紀。
- 参照サイト:系統樹ーWikipedia
じゃあ、ソクラテスとメノンは系統樹なしでミツバチを定義しないといけないわけで、それって超難問なのでは・・・
超簡単な定義
ところで、ミツバチという名前は「ミツ+ハチ」と分解出来ます(困難は分割せよ、てやつです)。
とするとここから言えるのは、ミツバチは「ミツに関わるハチ」だということです。
ミツバチが関わるミツはハチミツと呼びますから、「ハチミツに関わるハチ」というのがさしあたってのミツバチの定義ということになるでしょう。
ではハチミツとハチそれぞれとその関わりについて考えようか・・・とも思ったのですが、たぶんソクラテスとメノンが考えたミツバチの定義って、実はこのレベルだったんじゃないでしょうか。
だからすっ飛ばした、と考えると納得いきます。
「ハチミツに関わるハチ」がミツバチだよね、なんていちいち確認する必要もないことです。
実際専門家以外のほとんどの人にとっては、この程度の定義でなんら困ることなどありません。
これで『メノン』のミツバチの問題はクリアーです。
とはいえ、新たな問題が見つかってしまいました。
それは言葉の問題です。
良いニュースと悪いニュース
ミツバチという言葉は、誰かミツバチに関わりのあった人間が作った言葉なのだと思います。
この言葉を作るときには生物の遺伝子的差異などは問題にされず、ハチミツを作るかどうかが重要だったのでしょう。
このように、言葉は必要に応じて作られるものだと思われます。
ここで、言葉が必要とされる場面を考えると、理解する必要と伝える必要の両方があると思います。
対象を理解し、それを伝えるためにあるのが言葉であるはずです。
だとすると、良いことと悪いことが出て来ます。
どっちから聞く?(^ー^;
良いニュース
良いことからいうと、言葉が誰かが便利のために作ったものである以上、本質的にそれは他の人間にも理解出来るものであるはずだということです。
ソクラテスとメノンくんが結局本質を理解するに至らなかった「徳」だって言葉である以上、誰かが作ったものです。
それは理解されるものとして、伝達されるものとして作られています。
ということは、理解出来ないはずはない、ということになると思います。
言葉が理解出来るかどうかと、普遍的定義が可能かどうか、はまた別ではあります。
でも、ソクラテスにしろメノンにしろ、さまざまな「徳」を「徳」という言葉で総合して表現しているというところから、この言葉は普遍的なものとして作られた可能性が感じられます。
このように総合的な概念として使われている言葉は、普遍的な定義がなされるはずです。
悪いニュース
けれども、言葉は人が作ったものである、ということは、それは対象そのものではない、という現実にも目を向けざるをえないことになります。
ミツバチを「ハチミツに関わるハチ」として十分だというのは、ミツバチと関わる人間にとってのことであって、ミツバチにとってのことではありません。
ミツバチという言葉が表すものは、ミツバチそのものではなく、人間にとってのミツバチです。
この事態はミツバチに限らず、全ての言葉で付きまとうことになります。
言葉には限界があり、言葉を使う限り世界そのものを知ることは出来ません。
もうひとつ悪いニュースがあります(^ー^;
それは人間は対象を理解するのに、必ずしも言葉を必要とするわけではないということです。
見て、触って、振動を感じ取るなどしていろんなやり方で対象を把握することが可能です。
また、伝えることの方も言葉を介さないで行うことは可能です。
ジェスチャー、言葉ではない音、スキンシップなど、こちらもいろんな方法があります。
ということは、言葉による理解・伝達というのは人間が可能なものの中でも部分的なものに過ぎないということになります。
つまりは、対象を人間というフィルターに通し、さらにその上理解・伝達の手段も制限したものが、言葉ということになります。
もっとも、制約は人間を縛るだけではありません。
制約ゆえに、大きな力を発揮する、そんなところも人間にはあります。
漫画に限らず、世界に存在しないかもしれないものですら僕らは言葉にすることが出来てそれを共有することが出来てしまいます。
優れた文学は僕らが五感で感じる以上のリアリティや感動を時に与えてくれます。
言葉だけだというのに、とんでもないことです。
と、このようにこの悪いニュースは人によっては良いニュースでもあります。
恐らく文学者にとってこの制約はむしろ武器です。ですが、哲学者にとっては?
この制約とどう向き合っているか、という観点で哲学者を吟味してみるのも面白いかもしれません。
さりげなく挿入されたミツバチの話ではありますが、注意してみるとこんなにもいろんな問題が出て来ました。
『メノン』、簡単に読める割に無限に考えるネタがそこら中にちりばめられています。
恐るべし。