あれこれ考えてきた『メノン』想起説の考察、ようやく終わりが見えてきたところ(^ー^)
「分からない」の位置づけ
前回までで引っかかりを覚えたポイントは一通りクリアしたつもりでしたが、まとめに当たってどうしてももう一つ明確にさせておきたいものがあります。
それは、ソクラテスのいう「分からない」がどの程度の「分からない」なのか。
「分からない」は想起説のスタートラインですので、これを曖昧にしておくわけにはいきません。
ソクラテスは最初の方で自分のことをこんな風に言ってます。
徳についてぜんぜん何も知らない
この言い方だと、「徳という言葉自体聞いたことない」的な幼稚園児レベルかとも思われるのですが(^ー^;
その後でソクラテスはこんなことも言っていたりして。
ぼくはまだそれを知っている人に、出会ったことさえないと自分では思っている
この言い方は若干厄介です。
幼稚園児レベルであれば、それを知っている人に会ったことがあるかないかなんて判断しようがありません。
「出会ったことさえない」というふうに感じているということは、実は「徳」について全く知らないわけでもないというニュアンスがあるように思います。
というよりむしろ、その道を究めようとして、でも途中で挫折した、みたいな背景を感じさせます。
ぜんぜん知らないと言える=かなりよく知っている証拠
ということで、ソクラテスの言う「ぜんぜん何も知らない」は、全く一度も考えたこともない、という意味での「知らない」ではなく、何度も深く考えたし詳しそうな人たちとも議論したけれども、それでもその本質は掴めなかった、といったレベルだと思います。
要するに知らないというよりはむしろ実はかなり知っている、と思った方がよさそうなくらいです。
一方の対話相手メノンくんですが、彼はソクラテスとの対話により「徳」について「ぜんぜん何も知らない」状態だったことを思い知りますが、しかし幼稚園児レベルに分からないというほどではありません。
事実イヤなツッコミを入れてくるソクラテスに対して何度も何度も「こうじゃないか」「ああじゃないか」と提案してみせたところから、やはりソクラテスほどではないにしろ、彼なりに「徳」を考察してきた形跡を感じます。
以上より、想起説のスタートラインである「分かっていない」は、すでにできる限りの探求が試みられ、その結果限界らしきものにぶち当たり躓いてしまっているといった、ある程度は分かっている上での「分かっていない」であると言えます。
かしゆかの髪の色が分からない、の意味
このような「分からない」を前回まで何度か考察してきた「かしゆかの髪は何色か」という問題に当てはめてみます。
まずはじめに、かしゆか本人に会ったり、画像や動画を見たり、本人に会ったことのある人に話を聞いたりしてアクセスできる情報はそれなりに入手するなど、すぐにできることはある程度してみたとします。
(これが想起説のスタートラインに立つための条件ですが、考えてみれば、何かを探求する際にできることは一通りしてみるというのは当たり前のことです)
さて、その上で、「かしゆかの髪は黒だ」と判断したとします。
それで安心して納得もしていたところ、ソクラテスみたいなめんどくさい人が現れて、「それじゃあそこにいるおじさんの脂ぎってる髪の色と同じってことだね」とか言ってきたりするのです。
いや待てよと。
僕が見たかしゆかの髪の色は、そこらにいる一般人の髪と同じ黒だったのかと。
そんなはずはない、と心の中でうずくものがあります。
かしゆかの髪の黒さに感じる神秘的な魅力が、単純に黒だと言ってしまった場合欠けています。
でもそれじゃあ、あの黒は一体なんなのだろう??
もう僕は、かしゆかの髪は黒だ、とは言えなくなってしまいます。
これが、『メノン』の想起説風に言う場合の「かしゆかの髪の色が分からない」という状態です。
ではここからどうやってこの問題を解決に導けるか、ということで出てくるのが想起という仕組みでした。
「普遍」を経由する
ソクラテスはこのような「分からない」の状態から、問題解決が可能なことを『メノン』で幾何学の実例をもって教えてくれました。
幾何学の問題では、正方形の普遍的性質を用いて、未知の値を導き出しました。
元々知らなかったことを、正解を教わることなく、それが正しいと判断できたのですから、これは学びというよりは想起に違いありません。
よってこのプロセスは想起といえます。
この想起を幾何学以外でも使うことは、「普遍」を手がかりにすることで可能になると考えられます。
ソクラテスが問答の最初から執拗に「徳」の普遍的定義を探っていたのもそのためと考えれば納得できます。
かしゆかの髪の色を思い出せる
ここでまたかしゆかの髪に話を戻します。
面積の分かっている正方形の一辺の長さを考えるならば、正方形の普遍的性質を利用したように、「かしゆかの髪の色」に関しては、例えば「美しさ」という普遍を考えるのです。
そんなことしなくても、色見本みたいなものを全部見た方が良さそうにも思えますが・・・
普遍を考えた方が、それが正しいかの判断をより正確に行うことができるというメリットがあると思われます。
ありえそうな具体例を挙げるだけの場合、人間は間違う可能性があり、間違っているかどうかの検証に普遍が利用されるのです。
このやり方のメリットはもう一つあって、それは誰でもできるということです。
幾何学の問題を、幾何学をならったことのない召使いであっても解くことができたように、です。
誰でもできるということは、話し合って協力し合うことも共感することもできる余地があるということですから、社会を作って生きる人間にとってこれはなかなか利用しがいのある能力ということになると思います。
髪の色に関して言えば、デジタルデータとして色を解析した方が客観的だし直接的に正解を知ることができるじゃないか、と言われてしまいそうですが・・・
少なくとも、「烏の濡れ羽色」みたいな表現は、そんなことからは生まれないと思います。
そこに「美」を見ることで、初めてこのような表現は生まれると思いますし、濡れ羽色のデジタルデータである”RGB (0, 11, 0)”よりもずっと価値があると僕は思います。
余談ですが、かしゆかの髪の色が烏の濡れ羽色として妥当かどうかを判断できるほどには、残念ながら僕はかしゆかのことを知りません(実物は一回しか見たことがありません(;ー;)。
あくまで美の表現の一例として持ち出しただけであることを断っておきます。
「徳について」というフェイクな副題
これが『メノン』を読んで言える最大限のことだと思います。
「普遍」をいかにして知るか、とか、「普遍」を経由するのは必然なのか、とか、さらに気になることはたくさんあります。
でも、人間が「普遍」を使って未知の問題に答えを出していく、という可能性を示したことはそれだけで大いに意義のあることだと思います。
想起説を実例とともに示したところが、なんといっても『メノン』で一番の読みどころであり、面白いところだと僕は思います。
それに比べたら、徳を巡って明らかにされる諸々はあんまり面白くもないし大して記憶にとどめておく必要もなさそうな、言ってみればどうでもいいものだと思います。
プラトンの副題は当てにならないかもしれません(^ー^;
それでは最後に、ここまでで想起説についてあれこれ考えた際に出て来た疑問に次回解答していってみます。