Perfumeが志村けんと対談した『SWITCHインタビュー 達人達』で、重大な誤りを発見しました。
中田ヤスタカの紹介に誤りあり
それは冒頭の写真にも掲げた、中田ヤスタカに関するもの。
番組では以下の様に紹介していました。
上京後、Perfumeの楽曲を中田ヤスタカがプロデュースすることに。
SMAPや松田聖子の楽曲も手がける人物だ。
これは重大な誤りです。
Perfumeが上京して出会ったのは、「SMAPや松田聖子」とは無関係の2003年の中田ヤスタカでした。
当時の中田さんが実績としてひっさげていたものは、木の子とペアでやっていたSYNC⇔SYNCの無名曲数曲と、激しく微妙なアイドル曲2曲。
特にデビュー曲とも言えるアイドル天然少女EXへ提供した2曲のクオリティの低さは異常です。
昭和のAVみたいなジャケも含めて。
これは今でこそ黒歴史とでも言うべきものですが、当時はそれくらいしか実績はなかったのです。
SYNC⇔SYNCの曲は今聴いても意外といけますが、あ〜ちゃんは右から左だったと言っていました。
さらには、当時は見た目もかなりダサかったそうですからPerfumeの落胆は相当なものだったと思います。
Perfume伝説
木の子さんが言うには、当時の中田さんと木の子さんの売りは「殺人的な仕事の早さ」だったそうです。
5分の曲なら5分で作れるなんていう中田さんですから、色々とイベントを抱えていくアイドルのプロデュースには向いてるとでも判断されたのでしょうか。
ともかく、この無名で怪しい男に将来を委ねることになったPerfumeはとてつもない強運を持っていたと言わざるを得ません。
Perfumeのブレイクとは無関係に中田さんは自身のユニットCAPSULEやプロデュース業で名を挙げて「SMAPや松田聖子」まで手がけるようになったのです。
そんなこと、誰も予想していなかったのでは・・・
そんな成功の側面だけでなく、中田さんプロデュースは一時的に解散に追い込まれた頃のPerfumeをも救ったのではないかと僕は思っています。
Perfumeがピンチに陥ったのは1stアルバムがベストアルバムに決まった2006年。
この頃、Perfumeは芸能事務所アミューズ所属の女性新人タレント育成プロジェクトBEE-HIVEの一員でした。
その筆頭格だったのは、PerfumeではなくBuzyというグループで、プロデュースしていたのは既に地位を確立していたポルノグラフィティのチーム。
BuzyはPerfumeよりCDの売上げもライブの動員も上だったようですが、2006年6月に解散。
格下Perfumeも解散は時間の問題だろうなんて空気になったのもそんなに不自然なことではないと思います。
ただ、PerfumeはBuzyより売上げは劣っていたとしても、恐らくはそもそも経費がはるかに安かったのではと僕は想像しています。
無名の若造中田ヤスタカと、オリコンチャートでも上位に食い込むポルノグラフィティとでは、プロデュース料は雲泥の違いだったはずです。
ですから、Perfumeは収入は低くても支出も大して高くなかったのでは。
Buzyは売上げではPerfumeに勝っていたものの、ポルノグラフィティが時間を割くほどの収益は上げられなかったのでしょう。
会社としては、ポルノにはポルノに専念してもらった方が利益があるのなら別グループを続ける理由なんてありません。
もともとシングル三枚でおしまいなんて言われていたPerfumeですから、よほど利益率が良かったとかいうことがなければ生き残れなかったと思います。
というわけで、Perfumeの生き残りに重要な役割を果たしたのが、中田ヤスタカが当時まだ今ほど有名ではなかったことだったのではないかと思います。
余談
無名とか謎の若造とか言っちゃってますが、中田さんの才能は当時から一部では認められていました。
『モノクロームエフェクト』に対して、「曲が格好いい、最先端のことをやっている」
スウィート・ドーナッツを洋楽誌で取り上げようとして怒られたという吉田豪氏も。
吉田 「ボクがPerfumeを好きになったのは、もっとピコピコしてた時代なんですよ。インディーズ1stシングルの<スウィートドーナッツ>でハマって。“この曲作ってるのは誰だろう?”って、中田ヤスタカを知って、capsule聴いて、“ヤベえ!”って」
出典:CDJournal
というわけで、中田さんの紹介としては、「その後SMAPや松田聖子も手がけることになるが、当時は一部でしかその価値を認められていなかった人物」なんてあたりが妥当かと思います。