「夢みるカント」という本のサンプルを読んでいたら出会ったすげえ文。
埴谷雄高の「カントとの出会い」からの引用だそうです。
長いので分割して引用します。
俺は、俺である、という直截なテーゼが青春の中空高く掲げられていていい筈であったにもかかわらず、俺は———といいだしたまま、俺である、という述語がつぎにどうしても暗い胸裡からでてこないのであった。
個人の時代と言われて久しい今こそ、出会いたい言葉がここにあります。
自分が自分であることはそんなに明確ではなく、なのに自分が自分でなければならないという圧力があるように思います。
けれども、僕が感動したのはここでの共感ではありません。
埴谷雄高は、ここから突如として高みにのぼります。
私にとって困ったことは、俺は俺である、といいきってしまうことがこの自然を支えている何物かによって巧妙に瞞されている罠の事態であると思われるばかりでなく、俺は———俺である、といいきってしまわないことがいわば始めも終わりもないこの無限な宇宙の大暗黒のなかで初めて頭をもたげるある種の目覚めであるかのごとく感ぜられることであった。
え??
目覚め???!!!
こ の 発 想 は な か っ た。
すげえ。
さしあたって、『夢みるカント』はいいので、『カントとの出会い』の方を探しております。