身近な人が死んでしまったときの虚無感、どう向き合えばよいのでしょうか?
他人事じゃない死は重い
両親の両親(僕にとっての祖父母)の一人が亡くなった頃から、死は僕にとってちょっとずつ身近になってきました。
テレビやネットでは、人が死んだという情報は日常的に流れてきますが、それらはどれも遠い世界のことみたいで、我が身のこととはあまり思えません。
でも、じいちゃんばあちゃんは、一緒に遊んだ記憶もあるし、亡くなる直前にお見舞いに行ってたりもするので、亡くなってしまうと喪失感と虚無感が半端ないです。
お葬式に行くと、会ったことのない人たちが死を悼んで泣いていたりしていて、人の死の重さを思い知らされます。
いつか自分も
そういうのを見ていると、人が死ぬことがどういうことなのかをイヤでも考えさせられてしまいます。
自分がいつか死ぬのは既定事項です。なぜなら、僕は人間だからです。
論理学でよく出てくる三段論法の例と一緒です。
全ての人間は死ぬ。ソクラテスは人間である。だからソクラテスは死ぬ。
この素っ気なくも破壊力抜群の命題について考えると、夜も眠れないくらい苦しくなります。
いつか死んで消えて無くなってしまうのに、自分は生きる意義があるのかと。なにがしかを行う必要性はあるのかと。
そんな風にネガティブな思考が連鎖してダウンワードスパイラルにはまってしまいます。
科学にすがる?
こういう恐怖は生きている限りつきまとうものなので、僕より以前に悩んだ人たちがたくさんいるはずです。
宗教はこういった悩みに対して入り込んでくるものなのでしょうが、僕は正直興味ないので、せっかくかじりだしたサイエンスから救いが見いだせないかと考えました。
救いっていう言葉を持ち出したらサイエンスじゃないって言われたらそれまでなんですが…
自己の基礎を遺伝子へ置く
ドーキンスの利己的遺伝子の理論で生命を見つめ直す、というのは1つのヒントを与えてくれます。
生命の主体を遺伝子と考え、生命体は遺伝子を運ぶための装置に過ぎないという考えです。
そう考えると、僕の役割は生命をつなぐことですから、個人個人が死すべき運命であっても全く問題ないことになります。
また、僕自身が子孫を残せなくても、他の子供たちのために行動することで生命をつなぐことには貢献できますから、広い意味では問題ないです。
他の子供たちのための行動、というのは今の社会を守ることでもあると思われますので、いわゆる「よく生きる」ということは僕たち人間が死すべき存在であっても意義あることと言えそうです。
生命をつなぐ意義は
では、遺伝子の目的である生命を繋ぐという行為の意味は何なのでしょうか?
遺伝子自体も知らないのではないでしょうか。
遺伝子にとって、次世代に情報を受け継ぐことは存在の本質そのものです。
何故遺伝子は生命を引き継ぐのか、というよりは、生命を引き継ぐものが遺伝子なのだ、という気がします。
結論
身近な人の死に接して、切なくなったときは自分が連綿と続く生命の一部なのだと考えてみると、少し救われるかと思います。
そして、やっぱり今まで通り頑張って生きることに意味はあるのだと確かめられたなら、とても良いことだと思います。
ちなみに、一応言うと僕はドーキンスの本読んで無いです…だって超分厚いし。