スタインベックの「二十日鼠と人間」、思い出すと「ちくしょう」と泣いてしまう悔しさと悲しさの小説です。ネタバレあります。
1930年代、カリフォルニア
舞台はアメリカの荒野。
場所はカリフォルニア、時代は大恐慌の頃です。
出稼ぎ労働者のジョージとレニーが新しい職場に向かう途中の野宿のシーンから物語ははじまります。
彼らは若く夢のある二人なのですが、生活は最底辺と言って良く、レニーはケチャップのある食卓を夢見ます。
ジョージの愛すべき相棒、レニーは図体はでかくて力仕事に向いているものの、ちょっとばかり頭が回らない(まるで幼児のよう)ために色々と問題を起こしてしまって、二人は職場を転々としてきたことが語られます。
いつかは自分達の農場を持って幸せな生活を送るために、今度こそ失敗せずにお金を稼ごうと決意するジョージ。
レニーはジョージの夢を嬉しそうに聞いて、楽しい将来を夢見ます。
「いろんな色のウサギを飼おうぜ、ジョージ」
「もちろんさ」とジョージはねむたげに答えた。「赤や青やグリーンのウサギをな、レニー。わんさとなあ」
仲の良さそうな二人です。
幼児くらいの知能のレニーですが、ジョージは相棒として可愛がっているようです。
にしても。
漂う死亡フラグ感。
成功の物語とはならなさそうな、むしろ挫折と現実の厳しさが語られそうな、そんな不穏な空気を僕は感じました。
自分のイヌを、人に殺させるべきではない
二人がたどりついた農場には似たような出稼ぎの労働者たちが集まっていました。
狭い共同生活の場所にはいろんな人がいて、片手をケガで失った老人キャンディが二人とよく話すようになります。
ジョージの将来設計をたまたま聞いたキャンディは、その夢に資金で協力するので参加させて欲しいと提案します。
ジョージは、キャンディの資金が夢をより短期間に実現するのに有用であると考え、参加を受入れました。
キャンディには、長年連れ添い可愛がっていたイヌがいました。
しかしそのイヌは猛烈な悪臭を放っているうえによぼよぼの老犬だったので、他の労働者たちに疎まれていました。
ついには「イヌ自身のためにも」という名目で、労働者カールソンにイヌを銃殺すると宣告されてしまいます。
「もう生きがいってものがねえんだからな。食えねえ、見えねえ、けがしなきゃあ歩けねえってざまなんだぜ」
キャンディはなんとか食い下がるものの、既に何度も言われ続けた末のことであり、管理者の立場のスリムという男性もついには見て見ぬ振りをしたために、この提案を受け入れざるをえなくなりました。
「なんにも感じやしねえからな」と言ってカールソンは優しくイヌを連れ出したのでした。
すべてが終わり、ジョージたちに加わった後でキャンディは呟くのです。
「わしゃ自分であの犬をやるんだったな、ジョージ。わしの犬を赤の他人の手にかけるんじゃなかったんだ」
愛ゆえに、自分で殺すべきだったと言うキャンディの考えは否定しがたいものがあります。
殺しが最善となりうるような、そんな彼らの運命の辛さには言葉がつまりました。
このテーマは、見過ごすことの出来ない重大な衝撃を僕に与えました。
自分の手で殺す、愛のため
愛する人が、もし社会から抹殺されなければならないとなったとき、僕たちはどうすればいいでしょうか。
もし、僕らの手に拳銃があったのなら、自分の手で殺す、ということを選択肢に入れるでしょうか。
キャンディの犬のように孤独のなか死なせてしまうよりは、信頼し合ったどうしで最後の時間を過ごし、できる限り苦痛のないかたちで、むしろ幸せにつつんだ状態で死なせてやりたい、そんな風に考えることが、追い詰められた状況ではありうるのかもしれません。
もし可能なら自分も一緒に・・・なんて考えるのは、死後の世界を想定する死生観のためでしょうか。
ネタバレになってしまいますが、この小説では、「自分の手で殺す、愛のため」という悲愴なテーマが、最後に反復されてしまいます。
これが非常につらかったです。
読んだ直後もそうですし、時々思い出しては、涙がこみ上げてくるのです。
人と人の繋がり、生きる幸せや喜びを考えるときに、ふと思い出される忘れられない一作です。
根底に人間に対する愛情が感じられるすばらしい小説です。
ネタバレかました上で申し訳ないのですが、是非とも一度お読みください。