町田市の公式サイトには、このような地図が出ています。
半島のように突き出した市、なんて書かれていて、確かに東京都にくっついた余計な部分みたいな感じです。
この異常な形をした町田市の様子がもっと詳しく知りたくて、グーグルマップで調べたところ・・・
なんじゃこりゃ(^ー^;
すっごくヘンです。特に左右にひっついた部分。
神奈川との間に山でもあんのかと思いきや、むしろ同じ東京の八王子との境の方が丘になっているようです。
北部丘陵という名称は、町田市の中心市街地から見て、北部に位置する丘陵地帯であることからです。
情報源: 北部丘陵のご紹介/町田市ホームページ
良くワカランです。
右側にひっついている部分なんて、ちょっとひねったらもげてしまいそうです。
三輪町というそうです。
こんなヘンテコな地形を持つ町田市には、何かしらの苦難の歴史があるに違いありません。
で、タウンネット東京都というサイトで見つかったのがこんな話。
かつて実際に町田が神奈川県だったことは、あまり知られていない。
情報源: 町田市が、本当に神奈川県だった時代…明治に繰り広げられた「多摩領土戦争」とは? (全文表示) – コラム – Jタウンネット 東京都
え(^ー^;
神奈川だったんすか(^ー^;
ていうか、町田どころか23区の一部も含めて、今の東京の大部分が神奈川だったらしいです。
ところが、多摩川を水源とする水道問題、甲州街道などの利用などの利害関係から多摩地域が東京に戻されたらしいです。
なるほどねえと思いつつもう一度地図を見てみると・・・
町田市、多摩川(青ライン)も甲州街道(ピンクライン)も関係ねえ!!!!!!
それどころか、八王子と多摩との間に丘まであるというのに・・・
こんな町田市がなんで東京に組み込まれたかについては、同じサイトでこのような言及がありました。
なお、水道に直接関係ない南多摩郡も、このタイミングで府へ移った。
福生市郷土資料室が作成した「もっと知りたい 福生の歴史」によると、「この問題に、自由民権運動の盛んだった多摩地域の勢力を削減するという政治的な問題も絡み、水源に直接関係のない南多摩地域も含めて多摩地域は東京府に移管となりました」とある。
そしてこれから、120年近くにわたり、「町田=東京」となったのだ
情報源: 町田市が、本当に神奈川県だった時代…明治に繰り広げられた「多摩領土戦争」とは? (全文表示) – コラム – Jタウンネット 東京都
ここで突如登場した福生市は、南多摩ではなく八王子の北にある市です。
どうやら、当時多摩地域は広大でありつつも自由民権運動の牙城?的な感じに連帯していたみたいです。
え、めっちゃ熱いじゃんすか多摩。
首都東京はこの勢力を分断すべく、敢えて町田を東京に繰り入れたのでしょうか。
だとすると、このヘンテコな地形の町田市は最後の最後まで戦い抜きそうな厄介な市だと当時の首脳に思われていたのかも知れません。
こいつらを神奈川に残したらまずい、みたいな。
今となってはこの地域が政治的に過激だとかやばいみたいな空気は全くないですから、分断は成功したのでしょうか。
遠方の福生市が、「運動が盛んだった」という言葉を残しているのみというのも激しい抵抗と闘争があって今は無風と化している哀愁を感じさせます。
ということは、三輪町とか左の細長いところは、特にヤバい地域だったのかもしれません。
ヤバいっていうのは統治者にとってであって、民衆のために戦う勇敢な人々が集っていた地域だったのでしょうか。
だからあんなヘンな形にしてまで、東京に繰り込む必要があったのかもしれません。