インディ期Perfumeをいろいろ掘って、んで今のPerfumeにもたまにはこの時期の曲やってほしいなんて言っちゃったりしてたわけですが…
インディどっぷり聴きまくった末にメジャー直後の近未来三部作聴いちゃったらもうすご過ぎて吹きました。
もう、エレワの最初ののっちだけでちねる。
バージョン違いをあれこれ言うのって正直そんなにスマートな行為では無いとは思いつつ…エレワに関しては、僕はもう超絶に、このいきなりのっちの声から始まるバージョンの方が好きです。PVの数秒の間すら、ない方がいいと思ってる一人です。
で。
エレワは、明確にインディ期の曲とは違ってます。音の重奏性やギターを大胆に取り入れているところとかもそうですが、やっぱり感情込めた熱唱系を完全に封印したところが大きいと思います。
この素っ気なく、突き放されたような歌い方はインディ期にも一部導入されていましたが、単に中田さんの趣味の一種みたいであって絶対必要なのかはそこまで明確ではなかったと思うのです。
それが、近未来三部作においては明白に明確に作品の演出として機能していて、もはやこれ以外あり得ないところまで行ってしまっています。
いや、リニアは正直微妙wですが、シティの段階であの歌い方は間違いなくバッチリ目的のための手段となっています。誰にもできなかった、していなかったことを、最初にして究極系でやってしまったと思います。
あまりにすごすぎて泣いたw
いや、最近もべつに普通に聴いてましたけど、インディばっか聴いた末にってのは意外にしてなかったかもです。
こんなとてつもない曲を差し置いてまで、インディをやる必要はないwと思っちゃいました。すごすぎる。
ここまでは前振りで、こっから本題です。
歌い方が作品に不可欠のものとなったことで、創作としてのクオリティは超絶に上がったわけですが、しかし困ったことが起こったと思ってます。
それは、CDで聴くには最強だとしても、ライブで歌うものとしてはそのままでは不向きになってしまったことです。
ビタドロでも、既に歌は歌うより「流して」、Perfumeは踊りに専念みたいな感じになっていました。
シティもエレワも、がっつり歌うことは、当時も今もされていません。ざっくりYouTubeで見渡した限りはw例外あったらむしろ見てみたい…シティにはアコースティックバージョンあってがっつり歌ってますが。
つまりは、悪意を持って言うのなら口パク路線に舵を切ってしまったタイミングでもあるということです。
ところがどっこい…善悪なしに、客観的に公平に言うのなら、口で歌う代わりに身体で歌うことを選んだというのが実態です。
まあ、見てみてください。すっげえすげえ。マイクなくて歌は音源まんまが流されているだけだというのに、ものすごく雄弁に歌ってるように、ダンスが猛烈に進化しています。
結構まったり始まるのに秒で三人がそろっていくところとか鳥肌。
なんだけども、その後の、画質の悪さ貫通して動き一つ一つが全部音楽と連動してなだれ込んでくる感じ。最初のコーラス部分、「エーレクトローワー」で身体を縦に揺らす、からの「地面がー」で水平横切って、「震えて砕けた」の飛び散る感じ、からの「空の太陽が」で前後左右に対称に広がる一連の流れよ!
すごくないっすか?マジで。
細部まで作り込まれた踊りが、音楽を3D化して空間化している!!これは一種の領域展開ってやつなのでは…
もういっちょ。こちらは一部声が拾われてる感じもありますが、基本歌はCDのボーカルが流されています。
なぜに後ろのディスプレイでシティ流してるw
いやはや、それにしてもこの時点であまりにも完成された表現。見れば見るほどカッコいい。
これ、CDでエレワ聞き込んだ人ほど、すごさがわかるんじゃないでしょうか?耳だけで経験した世界を、拡張してくれる感覚がめっちゃめっちゃ気持ちいい。
ものっそい快感w
思えば僕も、当初は耳だけでPerfume愛好していた時期がありました。それが、レザビの振り付けみて「え、なにこれすごい」と思って、映像作品あさりまくったりライブ行かねばと思ったモノです。
こんなの具体例ありまくるのでもう一個挙げると、Magic of Loveの「風のように自由で」、はかしゆかの揺れるスカートがなびくことで本当に風が吹くし、「君のこと虜にするの」、は高速でつままれる指の動きがあることで爆発力を持って虜にされるのです。
こういう振り付けのすごさと音楽との連動、拡張性というのが、Perfumeが歌メインじゃなくなったタイミングで花開いているのが面白いです。
MIKIKO先生がすごいって話なわけですが、中田さんの表現が極まってきたタイミングで同時に急激に覚醒したのか?wPerfume強運すぎでしょ。