偽Perfume

自分しょうもないひねくれ者ですが、ドリカムの『何度でも』の歌詞を笑おうとは思わない

あの、一万回だめでも一万一回目はいけるかもっていう歌詞。

絶対賛否というか、鼻で笑おうとする層はいるのではないかと。かくいう僕も、最近までそうでした。

だって、この効率性重視の世の中において、こんな愚かなこともないだろうと。

3回目くらいで諦めて、とっとと次いけよと。なんなら、ブラック企業に洗脳された精神性みたいな歌詞ではないのかよと。

そういう、常識的突っ込みがいくらでも飛び交うような気がします。

僕も、大っ嫌いでした。

が、あることを知って、その考えはひっくり返りました。

それは、この曲が『救命病棟24時』というドラマの主題歌だったと知ったからです。というかこの曲はそもそもドラマのために書き下ろされた曲が一回破談になって、作り直されたものだとwikiには書いてありました。

いや、医療の世界の話であるなら、全然この『何度でも』の歌詞の意味は違ってきます。

そもそもが、ブラック企業だの効率性重視の業務だのと、次元が違います。

医学の人たちって、今でもヒポクラテスの誓いを教養で習うそうではないですか。紀元前の医者の精神を、引き継ごうとしている。

そして、医療用医薬品の添付文書に書かれた膨大な記述には、膨大な人たちの膨大な労力の結晶がびっしり書かれていて、しかも都度更新されています。

彼らの努力は、一万回どころじゃない。

一人の人間ができることはしれてますが、彼らは、何世紀もかけて、何度挫折しても諦めずに、次の一回にかけて、今度こそは救ってやるとその技を、技術を洗練させ開発してきました。

連綿と続くその流れの一部で、華岡青洲の全身麻酔やフレミングのペニシリンみたいなブレイクスルーがたびたび生まれ、もうだめだと思われていた病気やけがの新たな治療法が続々開発されてきたのだと思います。

そう、ドリカムの『何度でも』は、一個人の物語として聴いた場合は、結構うさんくさく、弱者ビジネスに取り込まれた哀れな無能ものの末路みたいな世界観であったのに対し、医療の世界の主題歌として君臨した場合には、数百年どころか数千年に及ぶ数々の人々の苦難と挫折と、それの超克の繰り返しをバックにした壮麗で壮大な、美しい物語を彩る歌と変貌するのです。

だから僕みたいなちっぽけでめんどくさくてややこしい人間であっても、ドリカムの『何度でも』は、全然笑おうとは思えない。すげえ、て言わずにはいられない。

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